古代史見聞録
Update 2004/12/24
2004/12/18
朝日遺跡の今
いきなり写真の張り間違えかと思われた方もおられるでしょうが、間違いではありません。これが、2004年12月18日現在の朝日遺跡中央部の姿です。朝日遺跡は、名古屋市の北西に位置する弥生集落遺跡で、名古屋市西区、清洲町、春日町、新川町の1市3町にまがたる弥生時代の濃尾平野の中心集落です。現在はまるっきりの内陸になってしまいましたが、当時はこの遺跡のすぐそばまで海が迫っており、平野最低地の集落でありました。現在の地図上では、朝日遺跡は南北に走る国道22号線と東西に走る国道302号線が交差する朝日交差点の周辺に位置しています。道路地図では朝日交差点ではなく清洲東(インター)と書かれているだろうと思います。国道302号線は名古屋環状2号線と呼ばれる名古屋市域の外側をぐるっと廻る幹線道路の一� �で、東名阪自動車道が高架の上を並行して走っています。国道22号線は、名古屋・一宮・岐阜をほぼ直線で結ぶ南北の幹線道路で、朝日交差点では地下に潜り国道302号の下を通過する形になっています。このような構造であるため、直進用に加えて左折・右折用の経路、高速のインターなどが入り組んだ非常に複雑な交差点になっています。そして、これらに加えて現在南北方向の国道22号線上に高架が建設中であり、その写真が上の写真1です。この工事にともなう発掘調査は昨年おこなわれておりまして、地図上には橋脚の断面積相当の調査区が南北に点々と連なって描かれています。もちろん、そこには現在橋脚が立っており、おそらく遺構は惜しげもなくつぶされたことでしょう。是非もないことではありますが、こういう現実を目� ��当たりにするとなんとも切ない気持ちになります。
この写真は、朝日交差点の国道302号線歩道上から東やや北を撮ったもので、足の下を国道22号線が通っています。この場所は清洲町内ですが、清洲町でも北東の隅にあたり、少し北へ行くと、春日町との境界が、少し東へ行くと名古屋市との境界が、少し南に行くと新川町との境界があります。いずれも100〜200mというわずかな距離です。発掘調査はこの高架が建設されている交差点周辺でも行われていたようですが、今回の現場はもう少し東の名古屋市域にあります。道路工事とは関係がなく、名古屋市営平田住宅(平田荘)の立て替えに伴う行政発掘で、本当に名古屋市の西の端、あと数10mで春日町という場所でした。朝日遺跡の中では、下図で東墓域と書かれた部分の旧河道を挟んだ北側の部分になります。今回の調査では、この場所� �ら弥生中期はじめごろの住居跡と、それらの住居が放棄された後の同じく中期の方形周溝墓群が検出されました。ただし、このあたりが墓域(北墓域)であることは既往の調査からすでに予測されていたことで特に目新しいことではないそうですが、中期初めの住居跡の出土は予測を裏切る結果で、説明会ではこれら住居等の生活痕が見つけられたことがもっとも大きな成果であったというような説明がされていました。そして、これらの住居が営まれていた時期とみられる土坑から問題の銅鐸鋳型は出土しました。
どのようにアイザック·ニュートンは、光の分離を発見した
現地説明会
はじめ現場の位置がわからずにうろうろしてしまいましたが、なんとか11時の開始時間までにたどりつくことができました。右の写真2が現場入り口の写真です。入り口から見える東西の通路に机が置かれ、出土品が展示されていました。公開された発掘現場は通路の南側、写真の左手奥になります。下の2枚の写真(写真3・4)が見学風景で、テレビ愛知の取材クルー(写真4)も来ていました。カメラ2台以上、スタッフも10人近くいたのではないでしょうか。新聞で報道されたときもですが、意外に報道機関が大きく扱っているのには驚きました。
今回の成果としては、銅鐸鋳型、あるいは、この位置から中期初頭の住居が検出されたことで遺跡のあり方を見直す必要が出てきたなどがあるのは確かですが、自分としては何よりも、朝日遺跡の現場、朝日の弥生人たちが歩いた地面に自分の足で立てたということが一番の成果です。一度は朝日の遺跡面に立ちたいとずっと思っていましたから、これは本当にうれしかったですね。このような貴重な体験をする機会を作っていただいたことに、そして、一銭にもならないのに現地説明会のために時間を割いて準備をしていただいたことに対し、名古屋市の埋蔵文化財関係の方々に深くお礼を申し上げたいと思います。
右の写真が公開された調査区(7区と6区の一部)のほぼ全景で(住居1が欠けています)、検出された遺構の概略図は下� �図2のとおりです。遺構図の転載の許可を取りませんでしたので、自分で書きました。(とはいえ、トレースが元ですからかなりグレーですが、見逃してください。)キャプション横の『別ウィンドウで開く』をクリックしていただいて、もう一つ別のウィンドウでこの図を表示させておいたほうが、この先、読みやすいのではないかと思います。この図では、土坑や用途不明の溝跡などは簡略化のため省略しています。水色の縦の線から右側が6区で、左側が7区です。6区のほとんど(図中、薄く色がつけてある部分)は埋め戻されており、実見することはできませんでした。銅鐸が出土した土坑は6区にありすでに埋め戻されておりました。残念。
写真3を見るとよくわかりますが、遺跡面は現在の地表から人の身長程度掘り下げたところにあります。地表下1.6〜1.7mというところでしょうか。また、同じく写真3がよくわかりますが、遺跡面より上では土の色が上半分と下半分で異なっています。おそらく、上半分の白色の部分は旧平田住宅建設時の造成工事で入れられた土でしょう。
この調査区全体では、住居跡5棟、方形周溝墓13基が確認されています。住居跡は中期前葉の朝日式期、方形周溝墓は他の調査区、既往の調査を含めて貝田町式期あたりの中期中葉だということで、後期の土器は出ていないと言うことでした。なお、図中の住居や方形周溝墓などの番号は現地説明会用のテンポラルな番号だということで、今回に限り有効です。
通路北側の調査区すべてで方形周溝墓が確認されており、また、東に隣接する11次調査の調査区(写真7奥の新しい建物の位置)全域にわたってやはり方形周溝墓が確認されており、このあたりの北墓域は東と北にさらに広がることが予測されます。また、一つの調査面積が極めて狭いのではっきりしませんが、下水道工事にともなう調査で南側にも方形周溝墓の周溝とみられる遺構が確認されており、旧河道そばまで墓域が広がる公算が大です。西側は以前の調査で朝日交差点北東部でこの北墓域につながると目される墓域が確認されており、西側も現国道22号あたりまでおそらく広がることでしょう。
"銃声残基は何ですか? "
さて、まずは銅鐸鋳型からいきます。出土した銅鐸の鋳型は下の写真6のようなものです(写真をクリックすると大きな画像を表示します)。ピーカンで正午に近い時間でしたので、真上近くからの光になり、陰影があまり出ておらず少し見ずらくなってしまいました。この鋳型片は左側がちょうど舞(銅鐸本体の天井にあたるところ)にかかる部分だそうで、左側が上、右側が下です。見にくかったの少し違っているかもしれませんが、写真から見て取れた紋様を図3にスケッチしてあります。左側の上半分はよくある斜格子紋、右側の下半分が綾杉紋ですが、この綾杉紋は"無軸の綾杉紋"といわれる特殊なものだそうで、現説資料によれば菱環鈕1式の荒神谷5号鐸に類例があるそうです。
この銅鐸は、菱環鈕式(1式の可能性が高い)と発表されましたが、どこでそう判断されたのでしょうか?鈕の部分か、あるいは、外縁付き鈕式以降で鰭がつく側面部分であれば菱環鈕式であることははっきりしたでしょうが、残念ながら出土した鋳型からは紋様だけで判断するしかありません。しかし、銅鐸を専門とされる何人かの研究者に見ていただいたところ、菱環鈕式ということで意見が一致しているということですので、まあ間違いないと思ってよさそうではあります。菱環鈕式は全部で7鐸しか出土しておらず、1式となると淡路島洲本、荒神谷、出土地不明の3鐸しか出土していません(銅鐸分布考−形式別分布)。これだけ出土例が少ないと果たして紋様だけで判断できるのかという疑問が生じるのは当然ですが、しかし、考えて� �れば外縁付き鈕式は134鐸、扁平鈕式は161鐸出土しているわけで(銅鐸分布考−形式別・紋様別データ)、これだけ出土している外縁付き鈕式にも扁平鈕式にも例がないものであるとすれば、それを菱環鈕式と判断することにはそれ相応の蓋然性があると考えてよいような気はします。
次に問題となるのが、この鋳型の時期です。他の方が担当者の方に質問されていたのを横で聞いていた話では、鋳型と一緒に出土したのは朝日式だということです。いろいろな土器が混じっていたわけではなく、朝日式だけが共伴されていたということであれば(おそらくそうでしょう)、その鋳型の年代を中期初めの朝日式期と見るのはごく自然なことではありますが、なんといっても鋳型は土坑の埋土の中に含まれていたということですので、後世の混入ということも当然ながらあり得ないことではないわけです。そこで、出土状況が問題になります。
食べ物の種類は、古インド人は食べた
写真7には、土砂の山の右端上部に何か白いものが写っているのが見えると思いますが、実はこれは銅鐸鋳型出土地点を示す看板で、この看板の真下が写真6の銅鐸鋳型の出土地点になります。望遠で撮った写真(右の写真7a)をよく見てみますと、どうやら出土した鋳型が銅鐸のどの部分にあたるのかが図示されているようです。これじゃ、誰にもみえませんよ・・・・。まあ、こうなるまでのいきさつには長い話があるのでしょう、きっと。銅鐸が出土したのは、図2の遺構概略図では右上の茶色で着色された土坑からです。この土坑はその後に掘削された南北に伸びる、形状からして方形周溝墓の周溝と思われる溝跡によって切られており、土坑および、銅鐸鋳型はこの溝跡より古いことが確認されます。この溝跡から出土した土器が写真 8の弥生土器6で、これは中期の土器だと言うことです。この半分に割れた土器がどういう土器なのかは見ただけではさっぱりわかりませんので、これ以上のことはわかりません。現地でもっと詳しく聞いてくればよかったのですが、その場ではこの土器がどういうものであるかを全く把握しておらず、むしろ、隣りの机にあった見事な貝田町式の壺(写真17)のほうに気をとられてまして、この土器は全くのノーマークだったのです。ですから、これ以上のことは分からないのですけれども、土坑を切る溝跡は弥生土器6の時期かそれよりも古く、切り合い関係からその溝跡よりも鋳型が出た土坑のほうが古いことがわかるのですから、この鋳型が土坑に埋められた年代が供伴した土器と同じ朝日式期であるというのは無理のない話だと思われま す。また、周囲の遺構の切り合い関係などからみても、この土坑は調査区の一帯が墓域として利用される以前、5つの住居が営まれて人々が生活していた時期のものだと考えるのが最も自然に思われますので、状況証拠から見ても土坑および鋳型が土坑に埋められた時期は住居跡と同じ朝日式期だという判断が支持されるのではないでしょうか。鋳型そのもの、あるいは、鋳型により銅鐸が製造された年代は、鋳型が砥石に転用されていた痕跡があるということですから、年代がさらに上がる可能性があることは言うまでもありません。
朝日で銅鐸が生産されていたかという点については、説明をされた方は終始慎重な態度を貫いておられました。無責任な外野はあれこれと騒ぐわけですけど、発掘の現場担当者はこうじゃないと、というくらい抑制の効いたいい態度であったと思います。説明終了後、長い時間見学者(一部は報道関係かもしれません)に取り囲まれて質問攻めにあっていましたけれども、最後まで落ち着いた理性的な対応をされていました。本当に頭が下がります。ご苦労様でした。といいつつ、自分も外野で騒いでるほうなのですから、何をか言わんやですが・・・・
閑話休題。で、この鋳型で銅鐸が朝日村で鋳造されたかどうかですが、その現場担当者の方は外から鋳型片として持ち込まれた可能性についても言及されていました。つまり、砥石として使うために外から運んできた可能性もあるということです。なんといっても破片は1点だけでいかようにも持ち運べますし、下記の通り玉造工房でありましたから砥石の需要もある、また、青銅器の鋳造をやった痕跡もまだないのですから、むべなるかなということではあります。この論点は、砥石となる石がはるか遠方から持ってこなければならないほどの貴重品であったかどうかに集約されると思います。そこではたと考えてみると、弥生人が砥石をどこで調達していたのかという知識を自分がまるで持ちあわせていないことに気づきました。実は 、担当者の方もよくわからないといっていました。出土した鋳型は砂岩製ですが、この砂岩がどこの砂岩であるかの分析も頼んでいるということでしたが、産地を特定するのは難しそうだということでした。あとは、全国で出土している鋳型片について、砥石などとして利用するために破片の形で鋳型が持ちこまれているというケースがどれだけあるかでしょうね。様子をうかがっていますと、そういう研究というのはされていないのではないかという感じがしました。あるんでしょうか?
これまでに日本の各地で、数多くの鋳型や鋳型片が出土していますが、そのたびにその鋳型がその場所で使われたのではなく破片の形で遠方から持ち込まれた可能性が議論されたという話は聞いたことがありません。ですから、通常なら今回の鋳型も朝日遺跡かその近辺で鋳造に使われたと判断するのが普通だと思います。にもかかわらず今回の鋳型片に限って外から持ち込まれたという話が出てくるのは、それだけ信じがたい驚天動地の出土であった事の反映であるということでしょう。とはいえ、外から持ちこまれた可能性を否定できない以上、それも考慮に入れる必要はあるでしょう。いずれにしても、この鋳型で銅鐸がどこで生産されたかについては今後の研究待ちです。最終的にどのような結論に落ち着くのか、非常に興味深� ��ことです。詳報、および、続報をアクセスしやすい形態で出していただくことを切に希望します。
銅鐸鋳型のほかに、玉類の製造がおこなわれていたことを示す証拠も出土しました。写真9がそれで、左一番上が玉に穴を開けるための石針で、住居4(下、写真12)から出土しました。その下が住居1(右、写真11)から出土した石針を砥ぐための砥石で、あまりに小さいのでその場でみても分かりませんでしたが、この横にあったパネルを見るとほぼ石針と同じ太さの溝が何条か縦に付いていました。針を砥いだあとだそうです。他には、玉素材を切るための石鋸のかけらや、玉類の素材、未完成の玉類などが並んでおり、このあたりが玉造工房であったことを示しています。この小さな写真では何が何やらわかりませんが、大きくしてもや� �ぱりわかりませんので、このままにしておきました。せめてもということで右側にヒスイ素材(写真10)を置いておきます。年代は住居跡と同じ朝日式期とみられます。
住居4の位置には後に方形周溝墓28が築かれており、これにより住居4の東半分は破壊されたようです。写真13の左側に縦に溝が走っていますが、これが竪穴式住居床の外周をめぐる住居4の溝あとで、その中央にやや傾いてあいた大きな穴は、方形周溝墓28の主体部の墓壙です。方形周溝墓というのは、本来は墳丘を伴うものですが、古墳と違って方形周溝墓の墳丘は突き固めが弱いために簡単に失われてしまいます。そのため、方形周溝墓では墳丘が確認されることはほとんどなく、写真14や写真15のような周溝の跡だけが確認されることになります。また、日本のお墓は 地面より上、墳丘の盛土の中にあることが普通で、このため墳丘が失われると主体部(埋葬施設)も失われてしまうことがほとんどで、方形周溝墓では埋葬の跡が確認されることあまりありません。ところが、この方形周溝墓28ではたまたま墓壙の堀込みが深く、主体部が残っていました。
一つ気になるのは、方形周溝墓28の墓壙は周溝墓のほぼ中央とおぼしき位置に掘られていることです。しかも一つだけ深い特別な墓壙で。つまり、方形周溝墓は通常は集団墓と見なされるのが普通ですが、このお墓については個人墓であった可能性があるのではないかということです。方形周溝墓の中に個人墓が存在するということは、それはある種の階級社会に入っているということですから、中期中葉の段階で・・・ということになれば、それはそれですごいことのような気がします。ここに書いたことがほんとならば、ですが。これも今後の研究待ちでしょうか。
写真14は方形周溝墓25と26の周溝で、遺構概略図(図2)では方形周溝墓27の南側から方形周溝墓22の方を向いて撮影したものです。L字型に曲がった周溝の内側、ちょうど人の立っているところが方形周溝墓25で、そこから溝を挟んで奥が方形周溝墓26です。この一帯には、写真16のような小さな土坑が無数にあいていました。説明は特になかったのですが、写真14に見るように、方形周溝墓25の本来墳丘があったはずのところにも存在しておりますので、おそらくはこの一帯が墓域になる前、住居跡と同じ朝日式期のものであろうと思います。用途はよくわかりません。貯蔵穴でしょうか?
この壷が、上でも少し話しに出てきたほぼ完形の貝田町式の細頸壷です。この下に出土時の様子を写した写真パネルがあったのですが、それによれば、ほぼこの形のまま出土したようです。出土位置は今回公開された南側の調査区ではなく、先に調査が行われた北側の調査区からの出土品です。貝田町式の壷というのは、底の部分が平たいお皿のような形をしたちょっと変わった壷です。図だけでしか見たことがなく、いつかは実物をみたいと思っていましたので、この壺を見つけたときは、まさに棚からぼた餅という気分でした。やはり実物を見ると印象は全く違います。図では水平に走る櫛描文がやたらうるさい感じでしたけど、実物はこのとおり落ち着いたいい雰囲気です。この壷は見たとおりほぼ完形の見事な壷で、持って帰り� ��くなりました。もちろん、そんなことが許されるはずはないのですが。
貝殻山貝塚資料館
せっかく朝日遺跡まで来ましたので閉鎖(休館)中という、うわさの貝殻山貝塚資料館にも足を運びました(関連記事)。書きたいことがいろいろあって、結構長い下書きを書いたことは書いたのですが、書いているうちに気が滅入ってきましたので、あれこれ書くことはやめにしました。はぁ・・・
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